章懐太子の墓は乾陵の17ヶ所の陪塚のひとつで、乾陵の東南3キロのところにあります。
章懐太子は名を李賢といいます。「章懐太子」は李賢の死後、塔の睿宗が封じた名前です。章懐太子が亡くなって、すぐここに葬られたのではなく、706年、つまり則天武后が亡くなった翌年、遺骨を乾陵に移して陪葬されました。その理由は章懐太子の悲惨な一生をたどらなければなりません。
章懐太子は唐高宗と則天武后の次男です。幼い時から賢くて、別の兄弟に比べて才能のある子供として高宗に寵愛されて太子に立てられたこともありました。
彼は全国の学者を集めて、「後漢書」に注釈をつけたこともありますが、思いもよらず、このことが自らに死の災いを招きました。
彼はその本に漢の高祖劉邦の妻呂后が天下を奪ったという史実を書き入れましたが、則天武后は自分を呂后になぞらえて当てこすったと受け取り、気分を害し、さまざまな手段で李賢を亡き者にしようとしました。
李賢は自分を守るために、やむをえず東宮殿の馬坊に密かに武器を隠しました。則天武后はそれを発見すると反乱を謀ったという口実で李賢を庶民に落とし、巴州(現在の四川省巴中県)に流しました。
684年、31歳の李賢は巴州で原因もわからず、突然亡くなりました。彼の死については諸説がありますが、則天武后が李賢の復活を恐れ、人を使って李賢を殺したと考える人が多いようです。
1971年7月から1972年2月まで章懐太子の墓を発掘しましたが、規模が少し小さいだけで、墓の造形と内部構造は永泰公主の墓と大体同じです。墓はスローブ状の墓道、天庭、別室、前後の墓室という構成で、墓道は長さ71m、幅3.3m、深さ7mです、
この墓はかつて盗掘されましたが、陶俑、三彩俑、生活用具など、いろいろな陪葬品が約600点出土しました。その中でも、高さ1mの文武俑、武士俑と色彩鎮墓獣は非常に生き生きとして人々の目を引きます。
墓の中の壁画は50点ほどあり、その中の「迎賓図」、「狩猟出行図」、「打馬球図」、「観鳥捕蝉図」の中の人物像はいずれも近世と調和がとれていて、真に迫った表現で正確に描かれているものばかりで、唐の絵画技術の高い水準を示しています。
墓の東側の「迎賓図」では唐の役人が外国の施設を出迎える場面を再現しています。前の三人は歓迎する唐の役人、その後ろの三人は外国の使者です。考証の結果、一番目はアラビア人、二番目は朝鮮人、三番目は突厥人だということがわかっています。この壁画は唐王朝の盛んな外交と外国および少数民族との有効往来の実情を示しています。
墓の西側の壁の「打馬球図」には騎馬人物が約二十人集まって描かれています。その中の五人は坊を手に持ち、馬を操りながら球を奪おうとしています。さらに一人はからだを後ろのにまわして球を打とうとしているところで、その姿はたくましくて迫力があります。
この壁画は唐の時代の馬球試合で球を奪う緊迫した場面を生き生きと再現しています。
唐の時代、馬球はペルシアから中国に伝わり、宮中で盛んになり、当時、皇帝から文武百官、婦人に至るまで、馬球に夢中になりました。唐の宮殿は狩場のほとんどに馬球場が造られ、また貴族や官僚の中にも私有の馬球場を持っているものがいました。
唐以後、馬球は全国に広がりましたが、明代に末頃には次第に衰退しました・
前の墓室と西の壁に描かれている「観鳥捕蝉図」は侍女たち宮廷生活を描いています。画面の三人の侍女のうち、年上の侍女は空を仰いでいて、宮廷生活に悩まされているように見え、ほかの二人は鳥を眺めたり、蝉を捕ったりして楽しんでいるようです。
参考リンク:
http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/sight39.htm
英語名:The Tomb of Crown Prince Zhanghuai
観光時間:8:00-18:00
アクセス:乾県城北
注意事項:入場料: 11元
