明清朝の皇帝陵墓群

時間:2007-08-08 00:00作者:閲覧数:
英語名称:Mausoleum of the ming and Qing Emperor 明清朝の皇帝陵墓群
世界遺産登録年:2000年、2003年、2004年
遺産のタイプ:文化遺産
所在地:河北省・湖北省
 

[河北清東陵] 清王朝が山海関以南に入ってから築造された初の皇帝皇后陵である。北京市中心より東へ150キロ離れた河北省遵化市西の馬蘭峪に位置し、敷地面積は250平方キロ、後竜と前圏の二つの部分に分かれる。後竜は陵の後にある長城から北へ少祖山と霧霊山を経て、承徳の近くまで延びている。西の密雲から東の遵化まで、山々が起伏し、風景が大変美しい。前圏は陵の所在地で、敷地面積は70平方キロ、南に大紅門、東西に長さ20キロ余りの「風水壁」がある。清の東陵は順治18年(1661年)に築造をはじめ、皇帝、皇后、妃、王女の陵墓が合わせて14カ所もある。そのうち清が山海関以南に入ってからの最初の皇帝順治帝(1644-1662在位)の孝陵、2代目の康煕帝(1662-1723在位)の景陵、4代目の乾隆帝(1723-1736在位)の裕陵、7代目の咸豊帝(1851-1862在位)の定陵、8代目の同治帝(1862-1875在位)の恵陵もあれば、さらにまた孝荘、孝恵、孝貞(慈安)、孝欽(慈禧)らの皇后の陵墓が4カ所、景妃、景双妃、裕妃、定妃、恵妃らの妃の陵墓が5カ所ある。順治帝を埋葬した1663年から、同治帝の最後の妃を埋葬した1935年までの272年間に、皇帝5人、皇后15人、妃136人、王子1人と合わせて157人がここに埋葬された。 中国現存の規模最大な、しかもほぼ完全に保存されてきた帝王皇室陵墓群である。一番南の石牌坊から、昌瑞山主峰の麓に建てられた清東陵の中心である孝陵まで、全長5キロの神路があり、道中、大紅門、更衣(着替え)殿、大牌楼、石像、龍鳳門、一孔橋、七孔橋、五孔橋、下馬碑、小牌楼、東西朝房、隆恩門、東西配殿、隆恩殿、二柱門、石五供、明楼などが次第に配置されてある。
※ 清王朝の帝王陵墓は5ヶ所あり、そのうちの3ヶ所は遼寧省にあり、北京を都にして以来、河北省の遵化市と易県に東陵と西陵を造った。

西太后:徽号は慈喜。1835年生まれ、咸豊元年(1851年)、秀女に選ばれ、翌年5月9日故宮に入り、当時18歳の彼女は蘭貴人の名が賜れた。1856年3月23日、同治帝を生んだ。1862年、咸豊帝が亡くなった後、27歳の慈喜は同治帝に聖母皇太后と敬称されるようになった。1908年10月22日、病気で74歳の人生を終えた。1909年10月4日(農暦)、清東陵の普陀峪定東陵に葬られた。

普陀峪定東陵:清代咸豊帝(1851-1862在位)の皇后である西太后慈喜のお墓。普陀峪は陵墓の北にある山を指す。咸豊帝の陵墓(定陵)の東に設置したため、普陀峪定東陵と名付けられた。西太后と東太后のお墓(普祥峪という山の南麓に位置する)は東西に並べ、2ヶ所とも1873年8月20日に着工し、1879年6月20日に完成したものである。当時、両陵墓を建設するには、普祥峪定東陵は白銀2665743.823両(1両は約50グラム)、普陀峪定東陵は白銀2275818.046両を費やした。
光緒二十一年(1895)、政権を掌握している西太后は自分のお墓を造り直せとの命令を下った。改修工事は光緒三十四年(1908)まで、計13年間をかかり、そのお墓を明・清時代に最も豪華な陵墓にした。他の陵墓より、特に異なるのは①隆恩殿及び東西配殿の木材に稀少な珍品である黄花梨木を使い;②梁と枡形(ますがた)に描いた図案にすべて金箔を貼り付け、殿内の壁にも赤と黄色の金粉を付けてあり;③64本の柱は這い上がっている金メッキの銅龍に囲み(戦乱中に盗まれたため、現存の実物はない);④宮殿前の階段真ん中に、鳳凰と龍が空に舞う姿を浮き彫りで表現するレリーフがあるなど。
1928年7月、当陵墓は軍閥による盗難を蒙り、地下宮殿に埋葬された数多くの珍宝は損壊・流失された。

裕陵:乾隆皇帝のお墓で、その棺桶を置く地下宮殿の豪華さに類のものはない。前後4つ門があり、最初の門から奥までの壁に仏教関係の彫刻を施され、そのうち、八大菩薩、四天王、五方仏、五欲供、二十四仏、獅駄(背負う)宝瓶、八宝、法輪、宝珠、仏塔、盆花、執壺などのほか、チベット語とインド語で書いた仏教経典など計30111文字も刻まれてある。「石彫刻芸術の宝庫」及び「荘厳な地下仏堂」との美称を受け、仏学と石彫刻芸術、また清時代の皇帝陵墓などの研究に珍しい実物である。孝陵の石像群:清時代の皇帝陵のうち、最大規模である。全長870mで、神路の道両側に文臣、武将3対ずつ、馬、麒麟、象、駱駝、カイチ(神話中の猛獣)、獅子など2対ずつ、あわせて18対を設置されてある。それぞれの石像は1枚石で彫刻され、高さは3メートルもある。清王朝の皇家陵墓の威厳と神聖をよく表してきた。

石牌坊:孝陵へ向かう際、最初に見える建築で、清東陵域内に入るスタート地点でもある。全体とも漢白玉という石に彫刻され、幅31.35m、高さ12.48m。中国現存の 石牌坊(石鳥居)のうち、最も幅広いものである。


[河北清西陵]  北京から南西へ約120km、易県の西約14kmの永寧山南麓に位置する清朝の皇帝陵墓。山々に囲まれ、山が起伏し、気迫にみちている。その敷地面積は清の東陵ほど大きくはなく、埋葬されている皇帝の数も少ない。雍正8年(1730年)に築造をはじめ、清が山海関以南に入ってからの3代目の皇帝である雍正帝を埋葬した泰陵、5代目の嘉慶帝を埋葬した昌陵、6代目の道光帝を埋葬した慕陵、9代目の光緒帝を埋葬した崇陵、孝聖憲皇后(乾隆帝の母親)の泰東陵、孝和睿皇后(嘉慶帝の皇后)の昌西陵、孝静成皇后(道光帝の妾)の慕東陵、ほかに妃の陵が3つ、親王と王女の陵が4つ、合わせて14カ所ある。4人の皇帝、9人の皇后、57人の妃および親王、王子と王女と合わせて76人がここに埋葬されている。そのほかに10代目で、中国のラストエンペラーといわれる宣統帝(日本では溥儀として知られている)のために陵墓を築造しようとした。清王朝が滅びたため、未完成のままで終わった。
雍正帝の泰陵を中心に点在している。清東陵とは、北京をはさんで対角線上に位置する。清の皇帝一族の陵墓は、清東陵と定められていたが、雍正帝の考えで、清西陵を新たに陵墓とすることが決められた。


[湖北明顯陵]  湖北省鐘祥市東の松山の上につくられた明代嘉靖皇帝の親の合葬墓である。面積約18,009アールを占め、中国最大の明代単体帝王陵である。清東陵は河北省遵化県馬蘭峪に位置し、清時代の順治18年に建てられ、皇帝、皇后、皇妃など14の陵をつくられた。5人の皇帝、15人の皇后、136人の妃、1人の阿哥と5人の公主が安葬されている。清西陵は河北省易県の西へ14キロメートルに位置し、陵の中には4人の皇帝、9人の皇后、56人の妃および王公と公主などが案葬されている。清東陵と清西陵は中国現存の規模宏大、体系が完全の古代帝王、皇后、妃の陵の群である。


2000年、上記3ヶ所は世界文化遺産として登録されてある。


[北京明十三陵]   北京北郊外(市内より50キロ)の天寿山南麓に、明代13名の皇帝(3番目の永楽帝から7代皇帝を除き、16代皇帝まで)の陵墓が点在し、総面積は20平方キロある。十三陵の西、北、東三面とも山があり、中部は平地が広げ、南側の東に蠎山(龍山)、西に虎峪山(虎山)が聳えるため、まるで十三陵盆地への入口に立つ守護神にみえる。温楡河が盆地の中を流れる。明の永楽帝がこの地勢を大変気に入り、この辺りを自分及び後代皇帝の墓地として指定した。
十三陵の中で最もスケールの大きいのは、永楽帝の長陵で、一番小さいのは明時代のラストエンペラー崇禎帝の思陵である。また、十三ヶ所の皇帝陵の中、発掘され、地下宮殿まで入ることのできるのは、ただ定陵の一ヶ所だけである。定陵を発掘することに決めたのは、明代皇帝陵墓の研究のため、20世紀50年代に国の考古学者が十三陵に対する文物保護調査を行った際、定陵を囲む円形の壁(「宝城」と呼ばれる)に、一部の煉瓦(レンガ)が剥がれ落ち、門の一部が露出していることを発見し、そこから皇帝の棺が置かれる地下宮殿まで行けるとの判断で、発掘に着手したのである。
十三陵の入口―大宮門(「大紅門」とも呼ばれる)をくぐり、目の前に神路(長陵へ続く7キロの参道)が見える。現在、その一部を特別見学エリアに区画されてある。神路見学区内に、中国最大級の石碑坊と道両側に並ぶ24体の「石獣」と「石人」と呼ばれるが石像がある。


[江蘇明孝陵]   明王朝・初代皇帝の朱元璋(1328~1398年)の陵墓を『明孝陵』といい、南京・玄武湖のやや東に位置する紫金山の中腹にある。1381年に着工、30年をかけて建造したものである。
明孝陵に続く神道の両側に、対になった獅子や麒麟などの像があり、大きいもので高さ約3.5m。
朱元璋の地下宮殿がある宝城と宝頂は見学可。自然の山を利用したと思われるお墓は実に、人工的に盛られた山である。 宝城とは1キロあまりの円形状城壁のようなもので、宝頂を囲んでおり、基盤は鐘山(紫金山)の南斜面である。


2003年、明十三陵(北京)明孝陵(江蘇)を世界文化遺産である明、清皇帝陵墓に追加登録された。
【交通】明十三陵:北京市内から車で約30分。清東陵・清西陵:北京から車で約3時間。

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