日露監獄旧址

旅順郊外の元宝坊に位置し、鶏冠山観光地の内の一つで、1902年に創設された、その後.日露戦争の始まり、85室の牢獄とオフィス棟一つしか建てられなかった。その間、帝政ロシアの馬隊兵営や野戦病院にしていたこともあった。
日露戦争が終了後、日本は1907年にこれを増築し、牢獄を253室まで増やし、地下暗室四つと病牢をいくつか設け、敷地面積が最大時22.6万平方メートルとなり、当時、東北地域において最大の国際的監獄で、“満州国”に駐在している日本大使により直接統制されていて、いくども名前が変えられた。初めは「関東都督府監獄署于」と呼ばれ、1920年「関東庁監獄」に変えられた。また、1934年 は「関東刑務所」と呼び、1939年には「旅順刑務所」と呼ばれた。この監獄は同時に2000数人を拘禁することができ、当時、沢山の愛国志士や共産党員や罪がない庶民達が、ここで残虐な体刑と苦難を受けていた。その中の多くは中国人で、反戦の日本人や朝鮮人などもいた。伊藤博文(朝鮮元凶、日枢密院長)を撃ち殺した朝鮮の国愛志士安重根も、ここで拘禁され亡くなった。一体ここで何人が殺害されたのか、きりもつかない。1942年から1945年までの間、絞首刑室で遭難した人だけでも700人余りいた。
1945年日本が投降する直前、日本の死刑執行人は監獄の内で秘密の大虐殺を行い、そしてすべての保存書類資料と各種の犯罪証拠を隠滅した。1971年から、現地の文化部門は広範な大衆によって要求に応じて、人力を集め、社会調査を展開して、大量の歴史文化財と写真資料を探し集めて整理し、元の監獄を利用して“帝国主義侵華の罪行展覧”を催した。また1987年に、監獄内の紡績織布工場で“日露旅順大連地区の侵略の犯罪証拠文化財展”室を開いた。展示されているのは、1894年の日清戦争から1945年までの、帝政ロシアと日本が旅順地区を占拠していた期間の犯罪写真、図表、碑石、実物などの200数件である。
1988年1月、国務院の許可により、旅順口区日露監獄旧跡は国家級文化財の重点的保護部門に決定された。
中国語名:
日俄监狱旧址(rì é jiān yù jiù zhǐ)
中国語名の読み方:
ルィ エ ジェン ユィ ジゥ ジー
英語名:
Riejianyu

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