尭廟

廟は臨汾市内にあります。 古代の五帝のひとり尭帝を祭るために建てられた廟である。晋代(265 ~420)に創建されたが、幾度か再建を繰り返されてきた。現在の建物は、清代に建てられたものです。廟内には、五鳳楼、尭井亭、広運殿、寝宮、尭 殿、壁廊などがある。清朝皇帝の真筆の扁額が掲げられてもいる。
また、ここの鼓楼の大太鼓は、ギネスブックに登録されているほどの大きな太古である。尭字壁には、歴史上の著名人、書家の「尭」字を彫った石版が多数嵌め込まれている。
尭はまた陶唐氏とも称し、名は放勛、史書では唐尭と言う。もともと河北唐県にいたが、後に太原に移住。部落連盟の首領に任じて以降、再び山西の臨汾に移った。
「庶民に罪あらば、責任は我にあり」。尭はまさにこうした聖君だった。衣服がぼろぼろの貧しい人を見ると、慙愧に絶えず「われが国をしっかり治めていないからこそ、彼らを飢えさせ、破れた衣服を着させている」と無念そうに言った。犯人に遭えば、自責の念にとらわれる。「私の教化が良くないからこそ、彼らに罪を犯させてしまった」。舜が尭に「天子の心構え」を問うと「頼めるところがない人には傲慢にならず、貧しく苦しい人には援助が必要であり、死者を不憫に思い、子供を愛し、婦女に同情すること」と答えている。
尭の一生は極めて質朴だった。粗末な米を食べ、野菜の汁を飲んだ。チガヤ葺きのぼろぼろ一間に住み、宮殿を建てることこともなかった。すべての精力をこの土地に捧げた。数千年の歴史の中で、尭を敬う市民は壮大な宮殿を建設し、その品性と貢献を記念した。尭廟は歴代王朝が尭帝を祭り、内外の華人がルーツを探り祖先を祭る場所である。地位としては、黄帝陵に次ぐ。
尭廟は漢魏時代に汾西古平陽城で建設が始まり、晋恵帝元年康年間に汾東原に移され、唐顕慶3年(658)に今の場所へと移った。歴代何度も修復され、戦乱にもたびたび見舞われ、欞星門や儀門はすでにないが、山門や五鳳楼、広運殿、寝宮などは今でも残っている。清代の康煕皇帝は平陽を巡幸した際、廟の修復を再び命令した。現存する多くの建築物はその時の物だ。
中国語名:
尧庙(yáo miào)
中国語名の読み方:
ヤオ ミァオ
英語名:
Yao The Legend Emperor In Ancient China Temple

尭廟の写真

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