解州関帝廟

三国時代、蜀漢の猛将・関羽の故郷である解州(県)にある。隋代に創建、明・清時代に再建されたものです。宮殿式という建築群は雄大で、中国にある関帝廟 の祖といわれる格調の高いものです。南北に分けられた主要な部分の敷地面積は18,576㎡で、国内に現存する関帝廟では最も大きく、関帝にお参りする最大の廟とされています。
解州は関公の古里であり、この偉大な武聖人は世を去って千年もの間、彼を崇め敬う中華民族は世界各地に数知れない廟宇を建て、自らの平安と事業の発展への加護を求めてきた。
解州関帝廟は、現在内外に数多くある関帝廟のなかで規模最大、最も完全な形で残っており、「武廟の冠」と称されている。隋代開皇9年(589)に建築が始まり、宋代の大中祥符年間(1008~1016)に再建され、その後も何度も増築と再建を重ねて今日の規模となった。
運城には古跡が数多くあるが、ここを訪れる観光客が多いのは間違いなく関帝廟があるからだろう。関帝の故郷であることから、この関帝廟は最も早くに建てられた。関係する碑文の記載によると、解州関帝廟は陳・隋代にすでにあった。宋元から明清にかけて、社会各界が関公を美化し、聖人化し、神格化するうねりが絶えず強まるにつれ、大規模な修復や再建、拡張が何度も行われた。
清朝末に至ると、何度も火災に見舞われ、非常に深刻な損失を被ったが、民国時代に修復、再建。中華人民共和国建国後、人民政府はこの古い建築群を極めて重視し、国の重要文化財に指定して保護する一方、資金を拠出して維持、修復をしたことで、歴史的な姿をほぼ取り戻した。関帝への崇拝はここで最も広がったことから毎年、大規模な祭祀儀式が開かれており、内外から多くの人が加護を受けようと参拝に訪れている。
関帝廟の建築物は多くが南向きで、南北の中軸線沿いに、大きく4つの部分に分かれて整然と並んでいる。
中軸線の南端は「結義園」。劉備と関羽、張飛の桃園での義兄弟の契りを記念して建てられたもの。関帝廟の園内をゆっくりと歩きながら、天を突く古木に触れ、山水に寄り添うのは殊のほか特色があり、景色には関公の大気と武帝の覇気が溢れている。さらに進むと、結義坊、君子亭、三義閣などの主体建築物がある。ここにいると、感慨無量となる。「桃園結義」の美しい伝説に浸り、その友情を羨望し、尊敬するにつけ、現実の中にいる自分はやや失落感を覚える。
中軸線の北端が主廟。多層的に展開する巨大な建築群である。主に瑠璃の龍壁、端門、午門、御書楼、崇寧殿、刀楼、印楼、春秋楼と数多くの牌楼で構成されている。毎年、関公を祭る活動が行われる。祭祀は4月8日。柏の大木が緑に変わった時に、多くの人々が訪れて祭祀に参加する。主体建築は規模壮大で、非常に力強く、梁の彫刻や棟の絵画は一際精美で、絶賛されている。廟内は威厳と荘厳さに満ちており、そこに身を置くと、思わず粛然と関公を崇拝する気持ちになり、その功をなした一生に敬意を払わずにいられない。
中軸線の南端の東側に沿って石製の牌楼「万代瞻仰」が立ち、南端の西側に木製の牌楼「威震華夏」が立っている。非常に迫力があり壮大で、関公と関公文化の中国古代史での輝かしい地位を顕示しており、尊敬の情が自然に湧き起こる。
中軸線北端の東西両側に、追風伯祠や長寿宮、崇聖祠など、ほぼ対称になった付属建築物が並んでいる。主廟と同様、やはり威厳と荘厳な雰囲気に包まれているが、関公の一生と境遇をより深く理解し、関公への崇拝と敬慕の気持ちを長く持ち、それを強められると言う点で、むしろ主廟では代替出来ない機能を備えていると言える。
ここには中国独特の関公文化が集中的かつ具体的に表れている。中国人が関公を崇拝する歴史は中国史のいかなる偉人をも超え、関帝廟の数は孔子廟よりも多い。では一体どうして、中華民族は関公を敬い、ひいては中国雄一の三宗教が共存する偶像にしたか。関帝廟に来れば、すべての答えが待っている。関公の古里に来れば、美しい景色と精彩を放つ故事が待っている。
中国五千年の文明のなかでは、関公だけが人から神への歴史を全うし、また関公だけが儒教と道教、仏教という中国三大宗教の偶像となった。関公の中国文化の中での地位は他と比べようもない。関公への崇拝は国籍を越え、華人の世界に息づいており、関公が中国文化に与えた影響と華人の世界での地位は百年続いても衰えることはない。関公の血と華人の血は同じ中華文明という血管の中で溶け合っているのである。
中国語名:
解州关帝庙(jiě zhōu guān dì miào)
中国語名の読み方:
ジエ ジョウ グァン ディ ミァオ
英語名:
Guandi Temple Of Xiezhou

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