陽関は2200年前に漢の武帝によって造られた軍事・交通の要所で、その後も魏、晋、南北朝、唐代まで西域南道の関所として経営された。玄奘三蔵もインドから帰国した際ここを通過している。陽関という名は玉門関の南(陽)にあることから名付けられた。
敦煌に2つある関所のひとつ。中国では北を陰、南を陽と呼ぶため、南側の関が陽関と名づけられた。長年の風砂にさらされ、現在では壁の基底の痕跡がわずかに残るのみだ。唐代の詩人・王維が詠んだ「西のかた陽関を出ずれば、故人無からん」という詩は、西域へと旅立つ友人へ送った歌である。
陽関については、唐代の詩人「王維(おうい 701?~761?)が詠んだ有名な詩がある。
「送玄二使安西」
渭城朝雨潤輕塵 客舎青青柳色新
勸君更盡一杯酒 西出陽関無故人
【読み】
渭城の朝雨 軽塵を潤す
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西の方陽関を出づれば故人無からん
この詩は、「安西都護府(あんせいとごふ)」へ帝の使者として旅立つ友人「元二(げんじ)」を「渭城(いじょう)」まで送っていき、いよいよ西域への関所となる陽関へ向かう日の朝、別れの杯を交わしている情景が詠われたもので、陽関を語るとき必ず紹介される。
護府とは、現在の新疆ウイグル自治区にあった町で、一方、渭城とは長安の北西、渭水を越えた北西にあった町です。
烽火台跡が残る高台には展望台があり、そこからは荒涼としたゴビ砂漠が眺望できる。
この辺り一帯は少し土を掘れば今でも陶器や古銭が出てくると言われている。
当時の遺跡としては烽火台跡しか残っていませんが、それがかえって長い歴史の流れの中で生き抜いた数知れない人々の気持ちを切なく語りかけているような哀愁を感じさせる。
英語名:Yangguan Museum
